宮本武蔵の人材マネジメント

宮本武蔵の武士道【(まこと)の道】

今回は「宮本武蔵の武士道」と銘打ちまして武蔵の哲学についてお話し致します。


 この世には森羅万象、宇宙の全てを創造した“大いなる力”がある。

 この大いなる力を“天”と呼ぶ。

天は自らと同じ大いなる力を人間の“心”の中にも作った。
この、人の心の中にある大いなる力を“小宇宙”あるいは“小なる天”と呼ぶ。
したがって、この世には二つの天がある。

「小なる天」が「天」と同じ力を発揮できた時、その人は一流になる。

 しかし、全ての人の「小なる天」が「天」と同じ力を発揮するわけではない。

 では、どうすれば人の“心”である「小なる天」を、大いなる力である「天」と同じレベルにまでもっていけるのか。

 それには朝鍛夕錬、

 千日の稽古を“鍛”とし、万日の稽古を“錬”とし鍛錬鍛錬、日々研鑚することが肝要。


大きな目標を持ち、自分は必ず天と同じ力を発揮できると信じて励むこと。
その目標がどれだけ大きく困難なものであっても、千里の道も一歩ずつ運ぶこと。

宮本武蔵の言葉「今日は昨日の我に克つ」


 この心がけが大切。では、どのように修養していくのか。


 まず第一に“心のありかた”

 全ての人に必ず一つは他の人より優れたものがある。
その、人より優れたものをいち早く見つけ、磨き、その道の権威となり、名をあげ身を立てること。そして世のため人のために尽くす事。これが肝要である。

 それには“心”と“意”の二つのこころを磨く事が大事である。
”心”のこころは気質や感情といった人の内面にあるこころである。
”意”のこころは意識や気(オーラ)など外に向かって影響するこころである。
物事に動じない広くゆったりとした迷いの無い平常心を常日頃からこころがけ、自分の内面を研鑚することで良い“気”を発し、その気でもって人々を明るく元気な気分にさせること。これがこころの磨き方なのだ。

 第二に “物事のとらえ方”

 これには“観の目”と“見の目”の両方をみがく事が肝要。
 見の目はただ見えているということであるが、観の目は全体を見通す目、洞察力である。観見二眼、観の目を強くすること。
まず鷹の目で高いところから全体像をとらえて、その上で個々のことを虫の目となって詳細に見ていくこと。
 人に物事を教える時も同じである。まずは全体像を教えて、その人のやるべき事の目的を教えた上で個々の事柄を教えること。大きなる所より小さき所を知り、浅きより深きに至る。
又、人には得手・不得手があるので、その人をよく観て、その人が理解しやすいところから教えること。奥義だの秘伝だのと勿体づけず、全てをオープンにして、教える順序に拘らず、その人が理解しやすい順で教えること。

 第三は“小なる天への到達方法”

 奇跡の発見、奇跡の発明、などと使われるこの“奇跡”というものは、人知を越えたものであり、奇跡を起こせるか否かは人知を越えたところにある。
 小なる天も、この人知を越えたところにある。人知を越えたところであるため、そこは目に見えないところであり、物事のように“ある”と表現されるものではない。この“見えなく”“無い”ところを”空”と呼ぶ。
 “空”の域に自らの心を到達させるには、まず目に見えるところ、すなわち“ある”ところを究める事である。

 “ある”ところとしては、

第一に“智”

 智を究めるためには、お釈迦様の教え、孔子・孟子の教え、史記や漢書などの中国古典歴史、吾妻鏡や大鏡などの日本の歴史など、多くの書を読み、読むだけではなく自分のものとして取り入れる。どのような人間が、どのような時、どのように迷い、苦しみ、どのような判断を下したのかを知ること。そして、それらの人物の行動を、自分が行動し意思決定するときの参考とすることが肝要。それを自分の智恵となるまで究めること。

第二に“利”

 利を究めるためには、物事の損得をわきまえ、諸事にわたり利点と不利点の両面から図る習慣をつけ、わずかな事にも気をつけ、役に立たない事はしないこと。
 武士であるからといって損得を考えたり商人との付き合いを卑下するのは間違いである。士農工商などの身分にとらわれず諸職の人々と付き合うことが大切である。例えば、大工の棟梁と付き合えば、人の適材適所への配置のしかた、やる気の出させ方などがわかり、武士の棟梁として国を治めることの要点がわかるものである。

第三に“道”

 道を究めるためには、人それぞれに我が道を見つけ出し、その道の玄人になることが重要である。道としては、例えば、宗教家となって人を救う道、医者になって諸病を治す道、などがあるが、どの道を進もうとも、”その道を究めるぞ”と心から思うことが重要である。
 道を究めるためには、日々道の鍛錬を欠かさぬこと。又、自分の道だけではなく、諸職の道をも知り、文化・芸能にもふれて自分の道に取り入れていくことが道を究める肝所である。


宮本武蔵の言葉「他のことをよく知らずしては自らのわきまえなりがたし
 
 

 この智・利・道の三つの“ある”ところを究めれば、“ない”ところの
”空”がわかり、心は空の域へ達する。
 このようにして辿り着く“空”であるからこそ、空は善があって悪は無いのである。


 以上のことに留意して日々鍛錬すれば、人の心は天と同じ大いなる力を発揮できるようになる。この力を奇特(きどく)という。

 奇特を発揮することで人は世に新たな秩序を作り、新たな価値を創造し、新たなものを発明し、新しい世の中を生み出す。
 この奇特を発揮するのは限られた特定の人ではない。全ての人に無限の可能性が潜在するのである。

 このことを自覚し、自分には世の中に新しいものを生み出す無限の可能性があると信じ行動し、日々自己の研鑽に努め、不可能を可能にし、治国平天下のために生きる。これこそが真の武士の生き方である。

宮本武蔵の言葉「空は善ありて悪なし。智は有なり、利は有なり、道は有なり、心は空なり。



 以上が宮本武蔵の哲学です。

 今の私達は刀を腰に差すことはしませんが、日本人としての誇りを持ち、心は武士でありたいものですね。

 最後に作家・吉川英治氏の言葉で締め括ります。

自ら伸ばそうともしない生命の芽を、また運命を、日陰へばかり這わせて、不運を時代のせいばかりにしたがるものは、彼(宮本武蔵)の友ではあり得ない。大風にもあらい波にも、時代がぶつけて来るものへは、大手をひろげてぶつかり、それに屈しないのが、彼の歩みだった。道だった。
                      (吉川英治「随筆宮本武蔵」より)



■  後記  ■

 明治の戦争で、私の先祖が戦場にて宮本武蔵の若い時代の流派である“円明流”の継承者と同じ部隊となり、それが縁で戦争後に少々手ほどきを受けたとの言い伝えがあります。

 先祖は宮本武蔵の剣術を習ったことが誇りで、子にその剣を教え、子々孫々と伝わり、私は大叔父よりその剣を教わりました。私も先祖と同様に、”宮本武蔵先生の弟子である”と誇りに思っております。しかし、残念ながら大叔父の寿命のため、5年半ほどしか剣術鍛錬ができませんでした。師の教えでは、最低限10年は剣術修行を続けなければ流派名を名乗るべからずであり、私は流派名を名乗るレベルにまで達することは適いませんでした。

 ブルース・リーやヒクソン・グレーシーなど、時と場所を越えて広がった宮本武蔵の兵法を学ぶ人達や、流派を継承してきた正統の宗家の方々に比べますと、私は中途半端で、一番出来の悪い弟子でしょうね。それに、武蔵先生の剣が自分にどの程度正確に伝わっていることやら。
 いつか機会がありましたら、武蔵先生晩年の流派である“二天一流”を継承する先生から手ほどきを受けたく思っております。

 そんなこともありまして、私は宮本武蔵の著した「五輪書」を何度も読み返し、すでに35年以上の歳月が流れました。
 何度も繰り返して読む事でみえてきた私なりの解釈で今回のお話しをさせていただきました。


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